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翻訳に関する最近の取組み
(while translating)

【自動翻訳について】

グーグルのブラウザでは、右上の「:(実際は3点)」タブから「翻訳」を選ぶことで外国語から、あるいは外国語へ、翻訳できる。 ソースは公開のウェブページである必要もなく、手元の html ファイルでも可能で、早い話が、「メモ帳」で作った文章の前後に html や body のタグを付け、というか、何も付けなくても、 ファイル拡張子を .html に替えるだけでブラウザで開けるようになる。

これと OCR とを併せることで色々なことができそうだと考え、こっちの方は無料のが見つけられなかったので、1万円位のを買ってしまった。 これは縦書きも取り込むことができ、その場合には読み違えも多いけれど、全部タイプするのに比べたら大分省力化できるので、まあ満足している。 この OCR 処理には一定の時間はかかる一方、自動翻訳の早さにはびっくりだ。

速度はそうとして、質の方を評価してみる。ここでは、Jules Verne :「80日間世界一周」の最初から3番目までのパラグラフについて。左から順に、1.仏原文、2.グーグルによる英訳、3.成書による英訳、4.グーグルによる和訳:

読み比べてみると、グーグルの自動翻訳は、仏→英 に限って言えば、なかなかいい感じだ。 時たま、まあ一頁に1~2箇所程度の間違いはあるが、書籍化された Geo M. Towle 氏の訳よりも読み易く感じられる。 実は、先日「80日間」を訳すブログ頁を作った際、私が最初に構想したのは、仏、英、日の3ヵ国語対訳を実現することだったが、仏→英 の翻訳については、その場でグーグル翻訳することでかなり目的は達せられることがわかった。 対訳を必要とするのは、語学を習い始めている人であろうから、得られた訳におかしな点がもしあれば、そのまま信じるのではなく調べてみることはどっちみち必要だし、それはできることだろうと考え、英を入れるのは止めた。

これに対して、仏→日 のグーグル翻訳は悲惨である。 上に示した例ではすでに重大な間違いが一つあって、「フィリアス・フォッグ」を「偉大な雄弁家の一人」としてしまっているが、彼は寡黙でどちらかと言うと口下手な人のはずであり、実際には単に雄弁家が住んでいた住居に住むようになっただけである。 これは意訳が度を過したことによる失敗と言える。 仏から(英からでも良いが)日では、手動の翻訳をする価値はまだかなりあると思ったので、「80日間」では、仏→日の対訳のみとした。


【仏→日(または 英→日)がなぜ難しいか?】

上に例示した「80日間」の結果はたまたまの事情ではなく、欧州語から日本語への翻訳では、Verne のフランス語にしても、Liliuokalani の英語にしても、意味の曖昧な単語、センテンスは非常に多く、トラブルになる。 にも拘らず、欧州言語どうしの翻訳では、これが問題にならない場合が多い。その理由を説明する。

一つの例として、英語の "may" もしくは "can" あるいは "possible" といった助動詞、形容詞を考える。これはフランス語では "pouvoir" という動詞、助動詞が相当し、英、仏の相互の翻訳では、そのように当てはめれば良い話である。 これを日本語に訳す場合、「何々できる」、あるいは、「何々かも知れない」とするが、日本語では、「何々できる」ことが「何々かも知れない」と表現されることはないし、「何々かも知れない」場合に「何々できる」と言うこともあり得ず、この2つは全くの別物と認識されている。 このように、日本語では別々と認識される概念が、英語と仏語では、どちらにおいても一括りで扱われるわけだが、逆の場合もあり得る。

一個の単語が広い意味を持つことはどの言語にもあり、個々の単語が担う範囲の広がりと切れ目は言語によって違い、英語と仏語、また、日本語と中国語のように、歴史的に交流が深かった言語間では、概念の共有化がされている。 そういう風に、単語の担う範囲が実は広くて色々な場合を含むこと自体、一つの言語や、母国語と親和性のある外国語のみを使っている人にとっては、指摘を受けないとわからない場合はあるようだ。 本来の文章をオウム返しに言ったり、比較的親和性の高い言語間で、例えば仏語から英語に訳すような場合なら、文章の正確な意味は理解しないままでも、結構、少なくともケチのつかない表現、変換はできてしまう。

逆に、相互の親和性が低い言語の間で間違のない翻訳をなし得たのなら、それはかなり正確に原文を理解できた証明と言えよう。 コミュニケーションにはいつまで経っても、細心の注意が必要であり、その石の橋を絶えず叩いて確認しながら進む努力は大切だと思う。 動物や物体、宇宙人までもが困難なく母国語を話す映画をお子さんが見る場合、親御さんは一定の注意喚起は必要かも知れない。

 
【私の翻訳手法】

次のステップより成る。

  1. 原文と、略翻訳文(グーグル翻訳または成書)とを用意する。
  2. 原文と、略翻訳文とを、同様のパラグラフに分離し、対訳エディターにかかるファイル形式に作る(各言語につき、*.html)。
  3. 対訳エディターにて、原文と、略翻訳文との各パラグラフを、同様のセンテンスに分離する。
  4. 対訳エディターにて、センテンスを正確なものに修正する(場合によって、各センテンス内部での分離、また、順序変更のメモ)。
  5. ウェブ用のファイルとして、対訳エディターから出力する(各言語、また、対訳 or 単独についての *.js; この形式のファイルは普通はプログラムだが、ここではテキストデータの置き場として使ってしまっている)。

ここに、対訳エディターとは、原文と翻訳文とのセンテンス対応を常に保持し、両ファイルの修正事項と出力形式とを保存する編集手段である。 それには、グーグルが提供するような翻訳機能があるわけではないが、対応関係を可視化することにより、わざわざ対訳することが面倒にはならず、むしろ効率化する。 この「効率化」は建前ではなく実績であり、「80日間」や「ハワイの物語」は、この手段なしでは翻訳する気にならない程である。 

 
【「ハワイの物語」について】

この本は、1990 年代半ばにハワイに旅行する慶事があったとき、アラモアナの書店で見つけた。それはすぐに読んだが、いつか翻訳したいと思っていた。

西欧人のアメリカ大陸への進出はネイティブアメリカンの土地を奪ったが、それは主に17世紀までの話だ。 ところが、19世紀の終わり近くになって米国人が同じようなことをしていた、というのがこの本に書かれている内容で、おそらく米国人の誰もが耳を塞ぎたくなるようなことだし、 名誉を重んじ、その中で一点の曇りもない自分の人生を標榜する信仰寄りの人にとっては、否定したくもなるだろう。

この本が当時米国本土で売られていたかどうかは知らないが、興味はあるところだ。今はアマゾンでも買える。


【「アロハ・オエ」について】

音楽については、「ハワイの物語」の第5章と第54章とに書かれている。リリウオカラニは「アロハ・オエ」の出版について述べているものの、作曲、という言い方はしていない。 この旋律自体は、東欧あたりの外国の譜面から取った可能性が高いが、これを、ゆっくりしたポリネシア風のリズムにアレンジしたのは彼女に間違いないだろう。 彼女の作詞は、ウェブ検索すると幾つも見つけられる。それらの詞はとても音楽的で、詞を読んだだけで節を付けたくなる。 ハワイ人が音楽に優れていると彼女は言っているが、これは母音が豊富で音数が自在なハワイ語の特性に由来するように思える。